北海道野付郡別海町 中春別中学校のブログサイト

中春別中学校 [北海道別海町]

2013年08月18日(日)

【中春別中学校】 広島の平和教育 [別海町少年少女ふれあいの翼]

  〜アオギリのうた〜

 広島で子供たちに歌いつがれている曲に「アオギリの歌」があります。戦後45年の2001年に広島市が記念事業一環に公募した「広島の歌」の最優秀グランプリに選ばれた曲です。当時、小学3年生の森光 七彩(もりみつ ななえ)さんが作詞作曲をしました。その後、幼稚園、小学校や慰霊祭などで歌われ現在に引き続いています。
 私たちが平和公園を訪れていた時にも、幼稚園児が鶴を持ち見学に来ていました。
 驚いたことの1つに、園児が木の前で大きな声で歌ってたことです。その歌が「アオギリの歌」でした。そこに立っていたアオギリの木は、被爆後の広島市民の希望のシンボルでした。
 被爆後「広島には75年間、草木も生えないだろう」といわれていました。ところが、被爆地から1300mの郵政局に生えていた4本のアサギリの木がありました。幹が半分えぐられた状態でしたが奇跡的に翌年の1946年に芽を吹きました。原爆の悲劇にも負けず、たくましく育ったアオギリは、人々に生きる希望を与えてくれました 1973年に郵政局の建替えで平和公園に移植され、現在も傷跡を包むように成長していました。毎年多くの種子をつけ、それらは全国や世界各国に配られ余した。
 平和教育の取り組みで幼稚園児から日常的に行われていると感心していました。しかし、学校では、戦争・被爆体験の無い若い若い教員がどう授業を構成していくか、学力向上の流れの中で時数の確保が限られてきている等の問題 あるそうです。
 戦後68年、広島に原爆が落とされた理由は・・・?
  
    「アオギリの歌」
   電車にゆられ 平和公園
   やっと会えたね アオギリさん
   小学校の校庭の木のお母さん
   たくさん たくさん たね生んで
   家ぞくがふえたんだね よかったね
   遠いむかしのきずあとを
   直してくれるアオギリの風
   遠いあの日のかなしいできごと
   資料館で見た 平和の絵
   いろんな国の 人々や
   私がみんなが考えてゆく広島を
   勇気をあつめちかいます

   あらそいのない国 平和の灯(ひ)
   遠いむかしのできごとを
   わすれずに思うアオギリのうた
   これから生まれてゆく広島を大切に
   広島のねがいはただひとつ
   せかい中のみんなの明るい笑顔
  
   
      ふれあいの翼 団長 外山浩司(中春別中学校長)
 

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アオギリの木の前で 稚園児1

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木の前にある解説板


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幼稚園児 2

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ボタンを押すと歌がながれます


07時57分投稿 (中春別中学校)

2013年08月17日(土)

【中春別中学校】 被爆体験者の講話 [別海町少年少女ふれあいの翼]

    被爆体験語り部 山本 定雄さんのお話

 山本さんは、「偶然が重なり被爆はしたが現在まで生きている。」と下を向いて話をはじめました。
 その偶然とは・・・。当時、旧制広島二中は、1年生から5年生まで1000人以上の学校。3年生から5年生は学徒動員で軍需工場へ。残った1年、2年が交互に勉強と建物疎開作業(道路の傍の建物を壊し、道幅を広げる作業)を行っていた。
 夏休み中でも学校があり、8月6日は1年生が作業日、2年生は授業日だった。1年生は、爆心地から約600Mの作業地点で原爆の閃光を浴び、ほとんどが即死、助かって収容先、自宅にいた人も6日後までに死亡。1年生344人教師8人の352名が死亡。2年生も学校に行っていたら全員が死亡していただろう。
 ところが、2年生は、前日の疎開作業終了時に「明日はイモ畑の草取り」に変更になり学校から6km離れた畑に集合することになった。このことが2年生の命を救う結果になった。それも、計画的にイモの草取りを命じたのではなく、2年生中心の先生(学年主任)の思いつき?。その偶然が、爆心地から遠くで被爆する結果となり、現在まで生きることができている。
 生き残った者として、仲間や後輩の一年生の分まで生きて被爆の恐ろしさ、当時の様子を子供たちに伝えて行くことが私の役割だと思っている。今まで音楽活動と通じて発信したり、多くのイベントの開催に携わってきた。
 地震や台風の自然災害は防ぐことができないが、原爆は防ぐことができる。この話や広島にある資料を見ていただき、日本から世界に発信をししていただきたい。二度と原子爆弾を使わないように世界の人たちに声を大にして訴えていきたい。別海の皆さんもこれから宜しくお願いいたします。
*最後は、力強く、私たちを見つめながら語りかけてくれました。
     
  ふれあいの翼団長 外山浩司(中春別中学校長)

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山本定雄さん 時には声を詰まらせることも・・・

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爆心地の地図を使っての説明

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山本さんを囲んで

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平和公園に全国から届けられた鶴

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被爆で亡くなられた方の写真と略歴のパネル

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今、問題になりつつある?はだしのゲン


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多くの外国からの訪問者

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今年の慰霊祭の大きな看板


00時05分投稿 (中春別中学校)

2013年08月16日(金)

【中春別中学校】原爆の子の像誕生 [別海町少年少女ふれあいの翼]

 広島平和公園の一角に「原爆の子の像」が建っています。これは、2歳で被爆し、中学生を目前に白血病で亡くなった佐々木禎子さんを偲んで全国からの寄付で建てられました。
禎子さんは、爆心から1,7kmの自宅で被爆しました。家族は、体調不良を訴えていたが、禎子さんは元気に成長。小学校入学後も病気で休むことなく通学し、歌とスポーツの大好きな女の子でした。特に走るのが速く、クラス対抗リレーの中心でした。将来は体育の先生の夢を持っていました。
 ところが、5年生の2月に白血病を発病し入院生活を送ります。「鶴を折ったら元気になれる」という言い伝えを知り
「元気になりたい」という願いを込め鶴を一生懸命折り続けます。願いが届かず、中学校入学を楽しみにしていましたが10月に死亡します。
 クラスの友達は、悲しみ、「自分たちにできることは何か?」と話し合いました。その結果、「原爆で犠牲になった禎子さんたち、多くの子供たちみんなのために像をつくろう」と全国の学校に呼びかけました。
 その結果、全国3,000校の学校から手紙と募金が集まりました。こうして1958年5月5日に完成しました。
 原爆の子の像の石碑には
   「これは ぼくらの叫びです
    これは 私たちの祈りです
    世界の 平和をきずくための」と刻まれています。
  
  *〜バスガイドさんの説明と資料から〜
   ふれあいの翼 団長 外山浩司(中春別中学校長)

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原爆の子の像(全体)

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鶴の鐘

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佐々木禎子さん

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宣言の石碑


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禎子さんの絵本

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禎子さんが折った鶴


07時04分投稿 (中春別中学校)

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