北海道野付郡別海町 中春別中学校のブログサイト

中春別中学校 [北海道別海町]

2013年08月17日(土)

【中春別中学校】 被爆体験者の講話 [別海町少年少女ふれあいの翼]

    被爆体験語り部 山本 定雄さんのお話

 山本さんは、「偶然が重なり被爆はしたが現在まで生きている。」と下を向いて話をはじめました。
 その偶然とは・・・。当時、旧制広島二中は、1年生から5年生まで1000人以上の学校。3年生から5年生は学徒動員で軍需工場へ。残った1年、2年が交互に勉強と建物疎開作業(道路の傍の建物を壊し、道幅を広げる作業)を行っていた。
 夏休み中でも学校があり、8月6日は1年生が作業日、2年生は授業日だった。1年生は、爆心地から約600Mの作業地点で原爆の閃光を浴び、ほとんどが即死、助かって収容先、自宅にいた人も6日後までに死亡。1年生344人教師8人の352名が死亡。2年生も学校に行っていたら全員が死亡していただろう。
 ところが、2年生は、前日の疎開作業終了時に「明日はイモ畑の草取り」に変更になり学校から6km離れた畑に集合することになった。このことが2年生の命を救う結果になった。それも、計画的にイモの草取りを命じたのではなく、2年生中心の先生(学年主任)の思いつき?。その偶然が、爆心地から遠くで被爆する結果となり、現在まで生きることができている。
 生き残った者として、仲間や後輩の一年生の分まで生きて被爆の恐ろしさ、当時の様子を子供たちに伝えて行くことが私の役割だと思っている。今まで音楽活動と通じて発信したり、多くのイベントの開催に携わってきた。
 地震や台風の自然災害は防ぐことができないが、原爆は防ぐことができる。この話や広島にある資料を見ていただき、日本から世界に発信をししていただきたい。二度と原子爆弾を使わないように世界の人たちに声を大にして訴えていきたい。別海の皆さんもこれから宜しくお願いいたします。
*最後は、力強く、私たちを見つめながら語りかけてくれました。
     
  ふれあいの翼団長 外山浩司(中春別中学校長)

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山本定雄さん 時には声を詰まらせることも・・・

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爆心地の地図を使っての説明

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山本さんを囲んで

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平和公園に全国から届けられた鶴

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被爆で亡くなられた方の写真と略歴のパネル

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今、問題になりつつある?はだしのゲン


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多くの外国からの訪問者

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今年の慰霊祭の大きな看板


00時05分投稿 (中春別中学校)

2013年08月16日(金)

【中春別中学校】原爆の子の像誕生 [別海町少年少女ふれあいの翼]

 広島平和公園の一角に「原爆の子の像」が建っています。これは、2歳で被爆し、中学生を目前に白血病で亡くなった佐々木禎子さんを偲んで全国からの寄付で建てられました。
禎子さんは、爆心から1,7kmの自宅で被爆しました。家族は、体調不良を訴えていたが、禎子さんは元気に成長。小学校入学後も病気で休むことなく通学し、歌とスポーツの大好きな女の子でした。特に走るのが速く、クラス対抗リレーの中心でした。将来は体育の先生の夢を持っていました。
 ところが、5年生の2月に白血病を発病し入院生活を送ります。「鶴を折ったら元気になれる」という言い伝えを知り
「元気になりたい」という願いを込め鶴を一生懸命折り続けます。願いが届かず、中学校入学を楽しみにしていましたが10月に死亡します。
 クラスの友達は、悲しみ、「自分たちにできることは何か?」と話し合いました。その結果、「原爆で犠牲になった禎子さんたち、多くの子供たちみんなのために像をつくろう」と全国の学校に呼びかけました。
 その結果、全国3,000校の学校から手紙と募金が集まりました。こうして1958年5月5日に完成しました。
 原爆の子の像の石碑には
   「これは ぼくらの叫びです
    これは 私たちの祈りです
    世界の 平和をきずくための」と刻まれています。
  
  *〜バスガイドさんの説明と資料から〜
   ふれあいの翼 団長 外山浩司(中春別中学校長)

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原爆の子の像(全体)

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鶴の鐘

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佐々木禎子さん

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宣言の石碑


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禎子さんの絵本

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禎子さんが折った鶴


07時04分投稿 (中春別中学校)

2013年08月15日(木)

【中春別中学校】原爆ドームが残った訳 [別海町少年少女ふれあいの翼]

 *68回目の終戦記念日を迎えました。今回、生徒たちは「別海町ふれあいの翼」の貴重な研修体験をすることができました。その研修で、広島被爆体験の語り部の山本定雄さんの講話内容の一部です。(一部、資料からも)

    〜原爆ドームはなぜ残ったのか?〜

 原爆ドームは、1915年に広島県物産陳列館としてチェコ人の建築家の設計により建設された。1921年には、全日本菓子飴展の会場や美術品も展示されるなど広島の文化の拠点として貢献していた。
 1945年8月6日原子爆弾が投下され、ドームの上空600mで炸裂。約3000度、秒速440mの爆風で半径2km以内の建物が全滅をしました。
 しかし、3階建ての本体部分は全壊したのに中央のドーム部分だけが残りました。その理由として、

1、衝撃波を受けたのがほぼ真上からだった。レンガ構造は  横の力には弱いが上からの力には強い構造。

2、窓が多くあり、爆風が吹き抜けることができた。

3、ドームの屋根の部分が本体の鉄と違い銅版で造られてい  たため鉄に比べ融点が低く爆風が通過したため。
 
 この3点が挙げられるそうである。当時、この建物中で働いていた内務省の約30人は、全員即死だったそうである。
 ご冥福をお祈りいたします。
  ふれあいの翼 団長 富山浩司(中春別中学校長)

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1915年 広島県物産陳列館(当時の名前)

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1945年 残ったドーム


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川を挟んで記念写真


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語り部の山本定男さん

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22時59分投稿 (中春別中学校)

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